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実は深い翻訳業界[51]~地球温暖化を“訳す”ということ:翻訳が支える環境コミュニケーション

ガラスの地球儀と万年筆が置かれた書類の上のデスク

地球温暖化、脱炭素、ネットゼロ—。


いまや、これらの言葉はニュースの見出しだけでなく、私たちの生活や未来を左右するキーワードになりました。気候変動をめぐる国際会議や科学レポートで交わされる議論は、世界中の政策や企業の行動に影響を与えています。こうした最新の知見を社会に正確に伝え、科学と人とをつなぐためには、「翻訳の力」が欠かせません。


本記事では、COP や IPCC 報告書に代表される環境分野の翻訳需要の背景から、専門用語の解釈、そして表現の精度を高める実践テクニックまでを解説します。



COP が近づくと依頼が増える?秋に忙しくなる理由


大型スクリーンに地球が映し出された国際会議の様子

毎年秋に案件が増える背景


気候変動分野の翻訳案件は、毎年秋にピークを迎えます。その理由のひとつが、11月ごろに開催される「COP(国連気候変動枠組条約締約国会議)」です。各国政府や企業はこの時期に向けて環境施策や脱炭素方針を発表するため、報告書やプレスリリース、プレゼン資料などの翻訳依頼が一気に増加するのです。


さらに、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の報告書発表時期とも重なるため、最新の科学的知見を反映した文書を短期間で翻訳・発信するニーズが高まります。とくに企業では、ESG(環境・社会・ガバナンス)報告や TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)の対応文書など、投資家やステークホルダー向けの翻訳が求められるのです。


翻訳現場の主役は「報告書」——環境レポートの裏側にある多様なニーズ


環境分野の翻訳対象は幅広く、政策文書から学術レポート、企業のサステナビリティ報告書まで多岐にわたります。


近年は「カーボンニュートラル戦略」「スコープ3排出量報告」「気候リスク開示」など、グローバル基準を意識した専門性の高い案件が増えています。


さらに、国際的には ISSB(国際サステナビリティ基準審議会) や GRI スタンダードの整備が進み、訳語や指標の整合性がより厳密に求められるようになりました。こうした背景から、環境翻訳では単なる言語スキルにとどまらず、科学的知識と社会的文脈を読み解く力が問われているといえるでしょう。



“ネットゼロ”を正しく訳す?専門用語と最新基準の読み解き方


ノートパソコンの画面にIPCC関連の資料が表示されたデスク環境

環境翻訳で注意すべき言葉たち


気候変動関連の文書には、専門的でありながら政策的な意味をもつ用語が数多く登場します。


たとえば、「mitigation(緩和)」「adaptation(適応)」「net zero(ネットゼロ)」「carbon sink(炭素吸収源)」 といった語は、一見シンプルでも、文脈によって含まれるニュアンスが微妙に異なります。


IPCC 第6次報告書(AR6)やパリ協定では、これらの用語の定義が厳密に定められており、翻訳者は原典資料を確認しながら一貫した訳語を選ぶことが求められます。また、SBTi(Science Based Targets initiative)など、科学的根拠に基づくガイドラインも参考にし、最新の訳語や用語基準を常にアップデートしておく必要があります。


同じ単語でも要注意。環境翻訳でぶつかる言葉の壁


環境レポートの翻訳では、同じ単語でも使われる文脈によって意味が変わることがよくあります。以下は代表的な例です。

英語原語

推奨訳

補足解説

mitigation

緩和

温室効果ガスの排出削減や吸収強化を通じて気候変動の進行を抑えること。“削減”と混同しやすいが、より包括的な概念。

adaptation

適応

気候変動の影響を前提に、人間社会や自然環境が柔軟に対応する取り組み。防災やインフラ整備も含む。

net zero

ネットゼロ

温室効果ガスの排出量と吸収量を均衡させること。ISO 14068 や SBTi Net-Zero Standardに基づいた定義が必要。

carbon neutrality

カーボンニュートラル

通常は CO₂ 排出に限定。net zero は温室効果ガス全体に及ぶ点で異なる。

carbon sink

炭素吸収源

森林・海洋・土壌など、CO₂ を吸収する自然システム。IPCC 用語集では「sink = 吸収流量」と「reservoir = 貯蔵量」を区別する。

climate resilience

気候レジリエンス/気候変動に対する強靭性

気候変動の影響に対する耐性と回復力を示す。単なる「回復力」では不十分。

transition risk

移行リスク

炭素規制・技術転換・市場変化による企業活動への影響。TCFD の4区分の一つ。

physical risk

物理的リスク

洪水・猛暑・干ばつなど気候変動による直接被害。TCFD のリスク分類で重要。

carbon offset

排出削減補償/カーボン・オフセット

単なる「相殺」ではなく、他のプロジェクトでの削減量を利用して自社排出を補う。認証制度(VER、CER)との整合が必要。

carbon credit

カーボンクレジット

排出削減量を単位化した取引可能な権利。クレジット市場(ボランタリー・コンプライアンス)により意味が変化。

greenwashing

グリーンウォッシング

実態を伴わない環境配慮アピール。欧州では法規制が強化されている。

loss and damage

損失と被害

気候変動による不可逆的被害を指し、2022年 COP27で基金設立が合意。訳出には政策文脈の理解が必須。

climate justice

気候正義

開発途上国・脆弱層が受ける不平等な影響を是正する概念。社会的正義の文脈を反映させる必要がある。

nature-based solutions (NbS)

自然を活用した解決策

生態系を活用した気候変動対策。和訳は「自然を活かした」「生態系を利用した」など複数ある。

carbon leakage

炭素リーケージ(排出移転)

規制が緩い国への生産移転により、結果として地球全体では排出が減らない現象。

scope 1/2/3 emissions

スコープ1・2・3排出量

直接排出(1)、購入電力等の間接排出(2)、サプライチェーン排出(3)。GHG プロトコルに基づく。

ESG disclosure / TCFD-aligned report

ESG開示/TCFD対応報告書

投資家向け開示書類。翻訳時には表現の正確性と法的意味の両立が必要。

green taxonomy / EU taxonomy

グリーンタクソノミー(環境分類基準)

環境的に持続可能な経済活動を定義する枠組み。EU 域内では金融商品開示規則(SFDR)や企業サステナビリティ報告指令(CSRD)と連動して運用されている。

double materiality

ダブル・マテリアリティ

財務的影響と社会・環境への影響の両視点を評価する概念。ISSB 基準と EU 基準の主要な相違点。

carbon intensity

炭素原単位

生産量あたりの CO₂ 排出量。日本では「排出原単位」と訳す場合が多い。

decarbonization pathway

脱炭素ロードマップ/排出削減経路

SBTi や IEA のシナリオ分析に基づく。時間軸・目標設定の一貫性を重視。

renewable energy certificate (REC)

再エネ証書

グリーン電力の属性を取引する証書。日本版は「非化石証書」。

carbon border adjustment mechanism (CBAM)

炭素国境調整措置

EU が域外から域内への国境をまたぐ特定の輸入品に対して炭素価格の差額を支払うことを義務付けた制度。

このように、訳語の選び方ひとつで報告書のトーンや政策意図が大きく変わることもあります。正確な翻訳のためには、語義を追うだけでなく、文脈・目的・読者の三つを意識して読み解く力が欠かせません。



正確さ×伝わりやすさ:科学をわかりやすく訳すコツ


グラフ資料に黄色のペンで書き込みを行う手元の様子

難しい言葉をやさしく伝える、環境翻訳の言い換え術


環境分野の翻訳では、「科学的な正確さ」と「一般読者への分かりやすさ」の両立が大切です。

報告書を市民や投資家向けに要約する場合は、専門用語をかみ砕き、イメージが浮かぶ言葉に置き換える工夫が効果的です。


  • carbon neutrality by 2050 → 「2050年までに温室効果ガスの排出と吸収を均衡させる」

  • adaptation measures → 「気候変動の影響に備える対策」


直訳にこだわらず、「何を」「誰に」「どんな影響があるのか」を明確にすることで、読者の理解度がぐっと高まります。


数字も“翻訳”の一部。ミスを防ぐためのチェック術


科学的文書では、数値や単位、図表こそがメッセージの中核を担います。tCO₂、GWh、ppm などの単位は、表記ゆれや桁誤りがあると信頼性を損なうため注意が必要です。また、グラフや図表のキャプション、脚注も原文に忠実に訳出し、必要に応じて注釈を加えることが求められます。


翻訳支援ツール(CAT ツール)を活用する場合は、表中の数値を自動チェックする仕組みを整えることで、ミスの防止にもつながります。



“調べる力”が翻訳力の分かれ目に:環境分野で信頼されるためのチェックポイント


ノートパソコンと文房具が並ぶ作業デスク

リサーチ力・専門知識・最新情報のキャッチアップ


環境翻訳で最も大切なのは、知識を更新し続ける姿勢です。


IPCC 報告書や UNEP(国連環境計画)の公式資料、環境省の邦訳版ガイドラインなどを定期的にチェックし、用語の変化や政策動向を追うことが欠かせません。また、欧州委員会や国際金融機関(IFC、OECD など)の英語レポートを読むことで、最新の言い回しやデータ表現にも自然と慣れていきます。


こうしたリサーチ力を磨くことは、翻訳精度を高めるだけでなく、クライアントからの信頼という何より大きな成果につながります。


これから伸びる「環境×翻訳」、未来をつなぐ専門分野として


環境翻訳は一過性のブームではなく、今後も持続的に需要が伸びる分野です。


「環境×経済」「脱炭素×金融」「再エネ×地域社会」など、複合的なテーマを扱える翻訳者は、将来にわたって高い専門性を持つパートナーとして評価されます。社会的課題を“自分の言葉”で伝えたいという意識を持つことで、翻訳者は「言葉を届ける人」から「未来をつなぐ専門家」へと進化していくでしょう。



まとめ


夕焼けの砂浜を歩く人物と宇宙に浮かぶ地球

気候変動レポートの翻訳は、単なる言葉の置き換えではありません。その背景には、「人と地球の未来」を正確に、そしてわかりやすく伝えるという使命があります。


翻訳者が積み重ねる一文一訳の努力は、社会の理解を広げ、行動を生み出す力になる。それこそが科学と人をつなぐ翻訳力の真価だといえるでしょう。

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