どんな仕事にも作法があります。アーティストにはアーティストの、アスリートにはアスリートの、そして実務翻訳者にも翻訳家の「作法」、つまり「決まったやり方や手順」があります。
例えば、仕事をクライアントから受注した場合、いきなり最初からなりふり構わず翻訳を始める方はまずいないでしょう。自分が好きな小説を読み始めるならいざ知らず、翻訳者の仕事の目的は「顧客満足」です。いくら自分で「最高の訳文!」と惚れ惚れしても、クライアントが首をかしげるようなら、翻訳者としては「半人前」と言わざるを得ません。
では、「一人前」の翻訳者は受注したらどんな点をチェックしているのでしょうか?今回は受注したらチェックすべき、5つの確認ポイントを解説します。
1.ファイルの内容
まず、案件を受け取ったら、ファイルの内容を確認しましょう。具体的には以下の点です。
ファイルにアクセスできるか?
Excel や Word の添付ファイルの形で案件が依頼される場合、まずそもそもファイルが開けるかを確認しましょう。添付忘れのこともありますし、ファイルが壊れていることも考えられます。また、クライアントが特定の翻訳ソフト(Trados Studio など)を使用している場合、そのソフトを自分の PC にインストールしていなければ、開くこともできません。
さらに、翻訳業界に限ったことではありませんが、Google ドキュメントやスプレッドシートで依頼される場合、アクセス権限が付与されていないこともよくあります。
「クライアントと信頼関係を築けているから大丈夫」とか「相手はプロのディレクターだから」とついつい確認を怠り、納期ギリギリに開いてみたところ、「開けない…!」「アクセスできない…!」と焦った経験は誰しもあるのではないでしょうか?
特にディレクターが短納期で大量のプロジェクト管理をしている場合は、ヒューマンエラーが避けられないこともしばしば。どれだけ仕事に習熟していて経験豊かでも完璧な人はいませんから、受注した側もチェックするのは「作法」と言えるでしょう。もし、参考文献が指定されている場合は併せてファイルが開けるか(アクセスできるか)を確認しておくと安心です。
文量や内容がクライアント指示通りか?
無事にファイルが開けたら(ドキュメントにアクセスできたら)、メール内の指示と合致しているかも確認しておきましょう。ファイルは受領したとしても、文字数やターゲット/ソース言語、ジャンルなどがもともとの依頼内容と異なっていることだってあります。仕事を始める前にチェックしておけば、納品後のトラブルを事前に回避できます。
2.文章の用途
受注したらチェックしておきたい別のポイントは、そもそもどんな用途で文章が使われるのかという点です。私たち翻訳者の仕事の目的が顧客満足であることを考慮すると、この点はもっとも重要だと言えるでしょう。
同じ文章でも使われる文脈や、誰に向けたものかによって訳し方が異なります。例えば、一般ユーザー向けのマニュアルやカタログ、パンフレットなのか、専門家や業界関係者向けの設計仕様書、営業資料、報告書、手順書なのかで言葉遣いは大きく変わるでしょう。また、紙媒体なのか、Web 媒体なのかによっても訳し方のテイストは変化するはずです。
また、弊社も得意としているマーケティング翻訳の場合は、タイトルやキャッチコピーなど文字数の制限がある場合も少なくありません。一人前の翻訳者はコミュニケーション能力も一人前、「クライアントが何も指示していないから大丈夫だろう」とは考えないで、気になったら前もって聞いておきましょう。
3.エンドクライアント
もし、自分のクライアントのさらに上流のエンドクライアントが誰かが分かる場合は、どんな会社なのか知っておくと翻訳の質が向上します。ホームページやプレスリリースなどで、エンドクライアントのブランディング手法が分かる場合も少なくありません。ホームページのデザインやコンテンツから多くの情報を収集できるため、翻訳のコンテキストを把握するのに役立つでしょう。
4.好みのスタイル
クライアントの好みのスタイルもチェックしておきましょう。例えば、文末が「です・ます」なのか「だ・である」なのか、体言止めが OK なのかなどです。また、翻訳のスタイルもできるだけソース言語に忠実な方がよいのか、自然な日本語を重視するのか、など先方からの希望事項があれば、聞いておいたほうがよいでしょう。
5.用語集やスタイルガイド
前項とやや重複しますが、クライアントのスタイルを知る上ですでに用語集や翻訳ガイドラインが準備されている場合は送ってもらいましょう。
クライアントによって用語集やスタイルガイドの扱いも異なります。「参考程度で OK」の場合もあれば、用語や表現を必ず合わせなければならないケースもあります。ただ、場合によっては用語集に言葉を合わせようとすると違和感を感じたり、どう考えても誤訳のように思えることもあります。その場合はコメント欄で申し送りをすると良いでしょう。
また、用語集の情報が膨大だとチェックするだけでも大変なので、資料が送られてこないことを良いことに「知らぬが仏」の姿勢で進めるのはやめましょう。結局、あとでクライアントに指摘されやり直す羽目になり、膨大な時間がかかってしまうことも。
また、継続的に依頼される可能性が高ければ、一度スタイルガイドに精通してしまえばクライアントの希望に近い品質に仕上げることができます。「きちんと用語集やスタイルガイドを参照して翻訳してくれる」翻訳者は依頼する側にとっても安心感があります。
以上の5つのポイントを受注時にチェックしておけば、クライアントの希望をしっかりと把握して翻訳がしやすくなり、修正も最小限に抑えることができるでしょう。
まとめ
今回の記事では翻訳者の作法を5つまとめました。いずれのポイントも「顧客目線」であることは言うまでもありません。翻訳家の仕事はクライアント、そしてその先にいる翻訳した文章を読む人たちのためのものです。読み手の気持ちを考えると、自然とやるべきことは見えてくるのかもしれません。
大事なのは、翻訳テクニックや翻訳スキルよりもハートです。翻訳プロジェクトでの効果的なクライアントとのコミュニケーション術を身に着け、翻訳依頼のクライアント指示が不明確な場合の対処法を学んで、「一人前」の翻訳者を目指しましょう。
参考サイト:
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著者プロフィール
YOSHINARI KAWAI
2008 年に中国に渡る。四川省成都にて中国語を学び、約 10 年に渡り、湖南省、江蘇省でディープな中国文化に触れる。その後、アフリカのガーナに1年半滞在し、英語と地元の言語トゥイ語をマスターすべく奮闘。コロナ禍で帰国を余儀なくされ、現在は福岡県在住。
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