日本語を母語としている翻訳者の場合、ターゲット(翻訳対象)言語が日本語という方が多いと思います。そのため、私たちはソース(翻訳元)言語をいかにぴったりの日本語に翻訳するかに心を砕くことになります。
過去の記事でも翻訳者にとって日本語の表現力が重要であることをテーマに取り上げ、そのために「類語辞典」が役立つことや、「リサーチスキル」が欠かせないことなどについて述べました。
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今回は言葉のアンテナを張って、感性を磨き、日本語の表現力をより豊かにする方法について具体例も挙げながら一緒に考えてみたいと思います。
一流の翻訳者や通訳に学ぶ
言葉のアンテナを張って感性を磨く1つの方法は、自分が「すごい!」と思う、一流の翻訳者や通訳者の言語センスから学ぶことです。
大谷の通訳は「nasty」をどう訳した?
個人的な経験で恐縮ですが、大谷翔平選手の通訳である水原一平氏に注目しています。彼は通訳のみなならず、運転手やキャッチボールの相手、さらには2021年 MLB オールスターの前夜祭であるホームランダービーではキャッチャー役まで務めた、大谷選手にとって公私ともにわたるサポート役として知られています。
水原氏が大谷選手のドジャース移籍会見でメモも持たず通訳している姿を見て驚いた人も少なくないと思いますが、言葉を生業にする私たちとして、彼がどんな通訳をするのかにも注目してしまいます。
私が個人的に「すごい!」と思ったのは、彼が2023年に行われた WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の優勝後のインタビューで行った訳です。
ご存じの方も多いと思いますが、優勝を決めたシーンでは、ピッチャーが大谷選手、バッターは大谷の当時のチームメイト、マイク・トラウト選手でした。結果は大谷がトラウトを三振に抑えたのですが、優勝後のインタビューで元レッドソックスのデビッド・オルティーズ氏が大谷に「兄弟同然のトラウトにどうしてあんな nasty な球を投げたんだよ?(Why you gotta get so nasty on him?)」と質問しました。
それを水原氏は瞬間的に「なんであんなエグい球を投げられたんですか?」と大谷に通訳。
「nasty」は元々「いじわる、たちが悪い、不快な」というネガティブな意味を持つ単語ですが、スラングでは「すごい、やばい」という意味もある言葉です。この言葉のニュアンスを文脈を捉えて訳すのは簡単ではありませんが、そこに同席した元メジャーリーガーたちとの大谷の関係も考慮にしながら、「エグイ」という言葉を選択した水原氏の言葉のセンスに惚れ込んでしまいました。
土屋政雄氏の「inconsistency」の訳し方
最近、資料を探しに図書館に行くことがあり、ついでに何か翻訳のスキルアップに役立ち、しかも面白そうな本はないかなとウロウロしていたら、カズオ・イシグロの『日の名残り』を見つけました。前から気になっていた作家だったのでこの機会に、と思って手に取り、貸出手続きを済ませ、家に帰ってから読み始めたのですが、「執事スティーブンス」の一人称で語られる伝統的な英国の状況描写に引き込まれてあっという間に読み終えてしまいました。
当然気になったのが、翻訳者である土屋雅雄氏です。カズオ・イシグロの他の作品だけでなく、数々の英米のミステリーを翻訳しておられます。
さすがに原文を全部読んではいないのですが、例えば、冒頭部分で、執事が自分が仕えている主人であるファラディ氏について述べる中で、次のような一文があります。
But from my observation of Mr Farraday over these months, he is not one of those gentlemen prone to that most irritating of traits in an employer -- inconsistency.
翻訳者の方ならどのように訳しますか?土屋氏は次のように訳しています。
「過去何カ月かの私の観察によれば、召使泣かせの最たるもの、あの『きまぐれ』という悪癖はファラディ様にはありません」
何とも味わいのある訳ではないでしょうか?特筆すべきは「irritating」を「いらいらさせる」とではなく「召使泣かせ」と、「inconsistency」を「矛盾、つじつまが合わない」とではなく「きまぐれ」と訳していることです。
英国の執事が語る格調高い雰囲気を崩さない土屋氏の名訳があるからこそ、カズオ・イシグロの作品の世界が日本人の読者にもそのまま伝わってきたのだと思います。
名訳を自分の中にストックしていく
きっと翻訳者なら誰にでもお気に入りの翻訳者や通訳がいると思います。映画やドラマを見ていても、「この人の訳、上手いなあ」と思う字幕翻訳者もいることでしょう。
翻訳に限ったことではありませんが、技術や芸を向上させるためには「真似」が欠かせません。もちろん、別の翻訳者の訳を盗作する訳にはいきませんが、自分が「惚れる」訳を見つけたらそれを自分の中にストックしていきましょう。
多くの翻訳者がなさっていることですが、そのための一番有効な方法は、「すごい!」と思った瞬間にメモすることです。それがどんどん溜まっていき、それを時に見返すと、自分なりの傾向があることに気づくでしょう。そうすることで、自分なりのスタイルを客観的に分析することができます。強みも分かれば、強化すべき弱みも見えてきます。
まとめ~言葉のアンテナを張り続ける
一流の翻訳者、通訳の訳だけではなく、日常にはほかにも素敵な日本語で溢れています。例えば、電車のつり革広告のタイトル、商品のパッケージのキャッチコピー、流れてくる歌詞、聞こえてくる会話、雑誌や本を読んでて気になる表現などなど、アンテナを張っていれば、いままでスルーしていたような日本語に目と耳が敏感になってきます。
どれだけ経験を積んでいる翻訳者でも、「自分の日本語力はもう十分」と思った瞬間から、成長は止まってしまいます。豊かな日本語力で、著者の意図をきちんと伝えられるようにこれからも研鑽を積みたいと思います。
参考文献:
『日の名残り』(カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳、ハヤカワepi文庫)
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著者プロフィール
YOSHINARI KAWAI
2008 年に中国に渡る。四川省成都にて中国語を学び、約 10 年に渡り、湖南省、江蘇省でディープな中国文化に触れる。その後、アフリカのガーナに1年半滞在し、英語と地元の言語トゥイ語をマスターすべく奮闘。コロナ禍で帰国を余儀なくされ、現在は福岡県在住
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