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無駄だからこそ人生?時間の使い方について考えてみた

更新日:2021年7月21日


ガーナを離れて日本に戻ってきて 1 年あまりが過ぎました。時々、無性に懐かしくなるものがあります。それはガーナでの「無駄な時間」です。


ガーナにいる時は、いつ来るか分からない乗り合いバスを待つ時間、着地点のないダラダラした会議、時間になっても始まらないパーティーなどによくイライラしていました。「なぜ決めたことを守らない!?」「もっとテーマ決めて話そうよ!?」「時刻表作ったほうが効率的じゃない?!」とガーナに毎日突っ込んでばかりいました。



それとは正反対に、日本ではプライベートな約束もパブリックなものもすべてが時間通り、仕事では無駄なおしゃべりはしません(コロナ禍というのもありますが)し、効率を高めるアプリやツールが溢れています。それはそれで心地よいはずが、なぜ今「無駄」がやたら懐かしくなったのか、考えていました。


「100% 無駄を排除」は逆効果?


そんな折、かのソフトバンクの孫正義氏、ではなく、彼の弟にあたる孫泰蔵氏のインタビュー記事を読む機会がありました。彼は会社経営者として効率化を極めていたときに、朝から晩まで分刻みで会議に参加、意思決定だけを求められる「会議マシン」になっていたといいます。自分がなんのために仕事をしているのか分からなくなり、すべてを捨てて逃げ出したいとすら考えたそうです。


同じ記事の中で彼は現代の効率化の背景にあるのは「工場の分業化」だと分析していました。つまり、彼が「会議マシン」として息苦しさを感じたのは自分が巨大なシステムの歯車として機能しているに過ぎないということに気づいたからだったのです。


確かに、無駄を排除しようとすれば、自分の好みや感情を否定する方向に進んでいってしまいます。そして、究極的には「社会にとって自分は有用なものかどうか」で人間の価値が測られるようになり、「有用」でなければ「無駄」として自分の存在すら否定することになりかねません。それはどう考えても行き過ぎです。


今、私はフリーランスとして働いているため、会社という組織の中で働いている方々と比べて無駄が許される立場にいると思います。だからといって自由に無駄なことをする権利を主張しつづける訳にもいきません。この「無駄」と「効率」のバランスって本当に難しいと感じます。




タモリさんが言う「無駄を楽しめる人」の条件


個人的な好みで恐縮ですが、よくジャズを聴きます。ご存じのようにジャズは一定の決まりごと(コード進行)の中で比較的自由に演奏を展開できるところが醍醐味です。


ジャズに造詣が深いタレントのタモリさんはよく「ジャズな人」という言葉を使いますが、こんなことを言っています。


「ジャズな人って何かって言うと、向上心がない人のこと。向上心のない人は、今日が今日のためにあるんだよ」


誤解のないように補足しておくと、タモリさんが言う「向上心」とは「邪念」のことだそうです。「ジャズな人」は邪念がないから目の前にあることを面白い、楽しいと思って、今を濃厚に生きることができるそうなのです。



無駄から生まれるものは多い


前述した孫泰蔵氏も「効率よく人生を進めたいというのは貧乏性」と興味深いセリフも述べています。つまり、「効率=楽して稼ぎたい」というのはタモリさんの言う「邪念」ということなのかもしれません。効率よくやろうとすればするほど、無駄を排除すればするほど、組織全体や将来のことばかりを気にして、今目の前にいる人とのおしゃべりや、仕事が楽しめなくなる、これが自分がガーナの無駄を懐かしんでいた理由だったのかも、とはたと気づかされました。



いわばガーナはジャズはジャズでもコード進行までも破壊してしまうフリージャズみたいなところがあり、それに対して日本社会は決まりにうるさすぎてアドリブの余地をなくしてしまう閉塞感のようなものがあるのかもしれません。願わくばその中間、つまり「メンバーが安心してアドリブで演奏できるようなコードくらいは決めておきましょうよ」という案配が理想なのかなという気がします。


旅行も効率的に観光地をまわるツアーに参加すると、友達に見せることのできる写真はたくさん撮りためられます。でも、旅行を終えた時、自分の中にはなにも残っていないことに気づきます。

途中で出会った人とおしゃべりしたり、行く予定じゃなかったレストランに入って意外なご当地グルメを見つけたり、その瞬間にしか生まれない光や風を感じたり…日々の生活でもそんな「無駄」を大切にできたら、ひとつひとつのことに関連性が見えてより充実した人生を過ごせるのかもしれません。


参考文献:


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著者プロフィール


YOSHINARI KAWAI

2008 年に中国に渡る。四川省成都にて中国語を学び、約 10 年に渡り、湖南省、江蘇省でディープな中国文化に触れる。その後、アフリカのガーナに1年半滞在し、英語と地元の言語トゥイ語をマスターすべく奮闘。コロナ禍で帰国を余儀なくされ、現在は福岡県在住。


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