実は深い翻訳業界[58]〜伝わることの先へ:誰も置き去りにしないインクルーシブ翻訳の実装術
- SIJIHIVE Team

- 5 日前
- 読了時間: 8分

インクルーシブとは、年齢・性別・文化・言語などの違いにかかわらず、誰も排除せず、すべての人が理解し、参加できる状態を目指す考え方です。翻訳や文章の文脈では、一部の人にしか伝わりにくい表現になっていないか、無意識のうちに誰かを対象から外す言い方になっていないかに配慮することを指します。
「インクルーシブ言語」と聞くと、「炎上を避けるための言葉選び」といった印象を持つ方もいるかもしれません。しかし本質は、単なるリスク回避ではありません。伝えたい相手に、必要な情報を正確に届けるための工夫です。
性別を決め打ちした表現、家族形態に対する固定観念、障害や年齢に関する無意識のニュアンスは、悪意がなくても翻訳に入り込みやすい要素です。この記事では、ジェンダー・障害・多様性の観点から問題になりやすい表現を整理しながら、インクルーシブな翻訳を実務でどう取り入れていくかを考えていきます。
インクルーシブとは

炎上対策ではなく伝達精度を高めること
インクルーシブ言語の目的は、「問題にならない文章」を作ることではありません。大切なのは、必要な情報が、必要な相手に正しく届くことです。
たとえば、行政の案内文に「お父さん・お母さんへ」と書かれていた場合、ひとり親家庭、祖父母が保護者になっている家庭、同性カップルの家庭などでは、「自分も対象に含まれているのだろうか」と一瞬迷ってしまうかもしれません。一方で、「保護者の皆さまへ」と表現すれば、案内の対象となる人がより明確になります。対象となる人を自然に含められるだけでなく、情報としても伝わりやすくなるのです。
これは翻訳でも同じです。原文では多様な読者を想定しているにも関わらず、日本語にする段階で無意識に属性を限定してしまうと、本来届くはずだった相手を狭めてしまう可能性があります。
翻訳者は、単に言葉を置き換えるだけの存在ではありません。その言葉が誰に、どのように届くのかを考えながら文章を設計する役割も担っています。インクルーシブ翻訳は、その「届き方」の精度を高めるための考え方だと言えるでしょう。
何が問題になりやすいか

ジェンダー、家族形態、障害、年齢、国籍・民族
インクルーシブ翻訳で問題になりやすい領域には、いくつかの共通点があります。
まず代表的なのが、ジェンダーに関する表現です。英語では性別を限定していない文章でも、日本語訳で「彼」「彼女」を補ってしまうことで、原文にない性別情報が訳文に入り込んでしまうことがあります。
家族形態に関する表現にも注意が必要です。「両親」「父兄」といった表現は、文脈によっては対象を限定しているように受け取られる場合があります。教育・行政・保険分野では特に、「保護者」「ご家族」など、より包括的な表現を選ぶ流れが強まっています。
障害に関する表現も、時代とともに変化しています。以前は一般的だった言い回しでも、現在では当事者にとって違和感のある表現と受け取られることがあります。たとえば、「障害者」ではなく、「障害のある方」「視覚障害のある方」といった表現が選ばれる場面が増えてきました。
また、年齢や国籍・民族に関する表現にも注意が必要です。「高齢なのに」「外国人なのに」といった言い方には、無意識に「普通とは異なる存在」として捉えてしまうニュアンスが含まれています。
翻訳の仕方によっては、原文にはなかった前提や印象が、訳文の中で強く表れる場合もあります。だからこそ、「日本語として自然か」だけでなく、「その表現がどのような前提を含んでいるか」まで意識することが大切です。
スタイルガイドの共通点

性別を決め打ちしない:they を単数形で使う
近年の英語では、性別を限定しない単数形の they が一般的に使われるようになっています。
たとえば、次のような文があります。
If a customer has questions, they can contact support.
これは、「顧客に質問があれば、サポートに連絡できます」という意味です。ここで使われている they は、男性・女性のどちらかに限定しない、中立的な代名詞として使われています。
翻訳時に重要なのは、「文法的に単数か複数か」だけを見るのではなく、「なぜここで they が選ばれているのか」を理解することです。
日本語では代名詞を省略できるため、「ご質問がある場合は、サポートまでお問い合わせください」と訳せば、性別を限定せずに自然な日本語になります。一方で、「彼はサポートに連絡できます」と訳してしまうと、原文にあった配慮が失われてしまいます。
人を先に置く(person-first)
インクルーシブ言語では、「属性よりも人を先に置く」という考え方も重視されます。
たとえば英語では、次のような表現の違いがあります。
disabled person
person with disabilities
後者の「person with disabilities」は「障害」より先に person 、つまり「人」を置く表現です。属性だけで相手を表すのではなく、まず一人の人として捉える考え方が反映されています。
もちろん、これは絶対的なルールではありません。当事者コミュニティによって、好まれる表現や考え方が異なる場合もあります。大切なのは、機械的に言い換えることではなく、「なぜこの表現が選ばれているのか」を理解することです。
翻訳者には、その文章がどのような前提で人を捉えているのかを見抜く視点が求められます。
翻訳で起きる落とし穴

英語の they、職業名、呼称(Mr./Ms.等)に注意する
英語の they は、近年、性別を限定しない表現として広く使われるようになっています。ただし、日本語では主語や代名詞を省略しても自然に読めるため、英語の代名詞をそのまま再現しない方がよい場合も多くあります。
たとえば they が使われているからといって、無理に「その人は」「彼らは」と訳す必要はありません。文脈によっては、代名詞を省いて文章全体を整えた方が、性別を限定せず、自然な日本語になります。
また、職業名や資格名の翻訳にも注意が必要です。
たとえば Registered Dietitian は、日本の「管理栄養士」に近い概念ですが、国によって制度や資格体系が異なります。そのため、安易に日本の資格名へ置き換えてしまうと、読者に誤解を与える可能性があります。
翻訳時には、その職業や資格がどの国の制度に基づくものなのか、訳語として完全に対応するものがあるのかを確認することが大切です。必要に応じて、原語を残したり、注釈を添えたりする判断も求められます。
また、映画やドラマの字幕では、原文にない性別情報を訳文で加えてしまうケースがあります。話者が明確でないセリフに「俺」や「あたし」といった一人称を当てるだけで、キャラクターの性格や印象が変わってしまうこともあります。翻訳者の「こういう人物だろう」という無意識の補完が、作品の解釈そのものを左右してしまうこともあるのです。
日本語の性別のニュアンス
日本語には、職業と性別が強く結びついていた表現が今も多く残っています。
たとえば、次のような言葉です。
看護婦
保母さん
女医さん
これらは現在では、次のように表現されることが一般的です。
看護師
保育士
医師
注意したいのは、こうした古い表現が、悪意なく使われやすいという点です。特に、長年その業界に関わってきた人ほど、以前の呼び方が自然に出てしまうことがあります。
翻訳者としては、現在どの表現が標準的に使われているのかを確認しながら、クライアントの業界慣習や読者層とのバランスを見る必要があります。大切なのは、単純に新しい言葉へ置き換えることではありません。その文章が誰に向けられているのか、その場面で使われるのかを踏まえて、適切な表現を選ぶことです。
レビュー用チェックリスト

NG → OK例で確認するインクルーシブ表現
最後に、実務レビューで確認しやすいポイントを整理してみます。
まず確認したいのは、「家族モデルを固定していないか」という点です。
NG:お父さん、お母さんへ
OK:保護者の皆さまへ
教育・保険・行政分野では、特に重要な観点です。家庭の形は一つではないため、特定の家族像だけを前提にした表現になっていないかを確認する必要があります。
次に、「サービス提供側の目線が強く出すぎていないか」も確認したいポイントです。
NG:初心者向け
OK:初めての方向け
NG:外国人のお客様
OK:日本語以外の言語を話すお客様
NG:患者
OK:患者さん/〇〇病のある方
ただし、すべてを機械的に置きかえればよいわけではありません。文脈によっては、専門用語として「患者」が適切な場合もあります。
大切なのは、「その表現が、相手をどのような立場に置いているか」を考えることです。単にやわらかい言葉を選ぶのではなく、読み手に自然に届く表現になっているかにも目を向ける必要があります。
翻訳品質というと、誤訳の有無や用語統一に目が向きがちです。しかし実際には、「誰を前提に文章が書かれているか」という視点も、読者体験を大きく左右します。
インクルーシブ翻訳とは、一部の人のためだけの考え方ではありません。読者の多様な背景を踏まえ、さまざまな人に情報を適切に伝えるための翻訳設計です。
翻訳者に求められるのは、原文を正確に移す技術だけではありません。その言葉が、どんな人に、どんな形で届くのかを想像する力も、これからますます重要になっていくでしょう。
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著者プロフィール
YOSHINARI KAWAI
2008 年に中国に渡る。四川省成都にて中国語を学び、約 10 年に渡り、湖南省、江蘇省でディープな中国文化に触れる。その後、アフリカのガーナに1年半滞在し、英語と地元の言語トゥイ語をマスターすべく奮闘。コロナ禍で帰国を余儀なくされ、現在は福岡県在住。

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