「神は細部に宿る」という言葉があります。一体誰の言葉なのか、その由来は分かっていないようですが、美術品や工芸品、建築物に関して、あるいは文学や映画についても用いられることがあります。
一般的にその意味は「細かい部分にまでこだわり抜くことにより、全体としての完成度が高まる」と理解されていますが、私たち翻訳者の「作品」にもこの言葉は当てはまるかもしれません。
クオリティの定義
クライアントが翻訳の正確さを求めることはいうまでもありませんが、細部をおろそかにした納品物ではクライアントに満足してもらうことはできません。例えば、マーケティング翻訳に誤字があるとクライアントのブランディングに影響を与えますし、契約書や技術、医薬に関する翻訳であればその文書に対する信用を失墜させることにもなりかねません。
もちろん翻訳者も人間なので、納品物に100%「神を宿らせる」、つまり完全さを期待することは非現実的かもしれませんが、言うまでもなくできるだけほころびのない状態で提供する必要性があります。そして、翻訳者が細部にまで心を砕くべきポイントのひとつが「表記の統一」です。
一人の翻訳者が訳した文章であれば大体同じスタイルになることが予想されますが、やはりそれでも表記がブレる場合は多々あります(同じ文章で「たとえば」と「例えば」、「ユーザ」と「ユーザー」をどちらも使用しているなど)。
「内容が正確ならいい」「とりあえず読めればそれでいい」というならもちろん良いのですが、文章の完成度としてはやはり少し落ちてしまうといわざるを得ません。どこまでルールにこだわるかはもちろんクライアントの希望や翻訳者側の仕事観にもよるので一概には言えないものの、翻訳を本職としている者としては表記のブレはできるだけ抑えてスムーズに読める文章に仕上げたいところです。
翻訳時に表記ブレしやすい5つのポイント
さて、同じ人が翻訳したものでも表記が分かれるとなれば、チームで作業する場合はなおさらです。また、同じクライアントの案件でも毎回違う人が翻訳するという場合もあるかもしれません。
大きなプロジェクトであればクライアントからガイドラインや用語集が提供され、各ブランドが好むコミュニケーションのスタイルや表記が定義されますが、そうでなくても気を付けたいいくつかのポイントを以下に挙げてみました。
1.語調
翻訳に限らず、あらゆるライティングにいえることですが、文末を「です・ます」にするのか、「だ・である」にするのかは読み手に与える印象を大きく左右します。企業のブランディングにも大きな影響を及ぼすポイントであるため、前もってクライアントにどちらの語調を好むのか確認しておきましょう。
2.数字の表記
数字が文章に登場する場合、まずそのまま数字で表記するのか、漢字を使うのかは翻訳者によってバラバラになりがちです。(例:「一度」と「1度」、「三回」と「3回」)
また、数が大きくなった場合、数字をカンマで切るかどうか(例:「7,000」なのか「7000」なのか)や、時間の表記にも注意しておきたいところです(2:00pmを午後2時とするか、14時とするか)。
3.単位の表記
金額や測量単位を翻訳する場合、各国で異なるため原文の表記のままにするのか、日本で使用されている単位に換算するのかもクライアントに確認が必要です。
| 英語 | 日本語 |
---|---|---|
長さ | インチ(in.)、フィート(ft.)、ヤード(yd.)、マイル(mi.) | キロメートル(km)、メートル(m)、センチメートル(cm) |
重さ | オンス(oz.)、ポンド(Id.) | キログラム(kg)、グラム(g) |
温度 | 華氏(℉) | 摂氏(℃) |
量 | オンス(oz.)、パイント(pint)、クォート(qt)、ガロン(gal) | リットル(l)、ミリリットル(ml) |
また、数字と単位を組み合わせる場合、英語では「100 m」のように数字と単位の間にスペースを入れますが、日本語では「100m」、「50%」のように通常はスペースを入れずに詰めて表記します。
さらにスペースの使い方についていえば、企業によっては「全角文字と半角文字の間には半角スペースを入れること」と決めているところもあります。(例:「今すぐ使える SNS の上手な使い方ランキング」)
4.記号の表記
コロン:やかっこ()、感嘆符!、疑問符?、スラッシュ/、アンパサンド&、パーセンテージ%などは、文章全体の統一性を出すため半角・全角いずれを使用するか決めておいたほうがよいでしょう。例外はありますが、ほとんどの場合、全角表記を使用しています。
また、ダッシュの使い方にも注意が必要です。例えば、「午前6時~午後4時」を表記する場合、英語であれば「6:00 am - 4:00 pm」 とするのが一般的ですが、日本語に翻訳した場合「波ダッシュ(~)」に変えた方が自然に見えることもあります。
5.固有名詞の表記
人名や地名、企業名など固有名詞を翻訳する場合は、英語のままで残すのか、それともカタカナに表記しなおすのかを事前に決めておく必要があります。システムのUIを翻訳する場合、ボタンの名前(「戻る」ボタンなど)についても同様です。
外資系メーカーなどの場合、商品名やブランド名などがいわゆる「DNT(do not translate)」扱いになり、翻訳せず原文のままで残すこともあるため、用語集やガイドラインで前もってチェックしておきましょう。
さらに人名に関しては「さん」や「氏」を付けるのか細かいルールも相談しておくと安心です。
タイトな納期とのバランスはいかに?
今回の記事では、すでに翻訳者の皆さんが心がけている点かもしれませんが、案件に取り組むにあたってチェックしておきたい点を列挙してみました。
当然ですが、スケジュールがギリギリだと表記の統一という細かな部分にまで気を配る余裕がなくなってしまいます。理想は表記ルールの確認や相談を含めて、余裕をもったスケジュールを組むことですが、翻訳業界において現実的にはなかなか難しい面もあります。
ただ、工芸品や美術品とは異なり、翻訳者の仕事が目指すのは「神が宿る完璧な仕事」ではなく、「クライアントが満足する仕事」です。いくら翻訳者が表記の統一も含めて完璧なものに仕上げたと感じ満悦していても、納期に間に合わなければ本末転倒だからです。
そのことを前提にすると、表記の統一において翻訳者が普段から気を付けておきたいのは以下の点です。
1.基本となるマイ翻訳・執筆ルールを作成する
1つは普段から翻訳にしてもライティングにしても、上記の点も参考にしながら自分なりの表記統一のルールに基づいて執筆する習慣を持つということです。そうすれば、ひとまず翻訳・執筆してから、仕上げに表記の変換をする手間を省くことができます。ある意味、自分を「翻訳マシン」に見立て、表記統一ルールをダウンロードしておくようなイメージです。
2.案件ごとにルールをカスタマイズする
そしてもう1つは案件ごとにそのルールを微調整するということです。普段から自分なりの統一ルールを持っているため、毎回クライアントごとのルールをゼロからダウンロードする必要はありません。既にダウンロードしているルールをアップデートすれば十分であるため、かかる負荷を抑えることができるという訳です。
細部までこだわって納品するとクライアント満足がアップするだけでなく、なによりも私たち翻訳者自身も「やるべきことはやった!」というすがすがしい気持ちになるものです。
今回の記事が、少しでも皆さまの参考になれば幸いです。
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著者プロフィール
YOSHINARI KAWAI
2008 年に中国に渡る。四川省成都にて中国語を学び、約 10 年に渡り、湖南省、江蘇省でディープな中国文化に触れる。その後、アフリカのガーナに1年半滞在し、英語と地元の言語トゥイ語をマスターすべく奮闘。コロナ禍で帰国を余儀なくされ、現在は福岡県在住。
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