ガーナから 1 月末に帰国してからの約一か月半は、ちょうどコロナウイルスの世界的流行の時期と重なっていました。いずれ拡大するだろうと予想されていたアフリカ大陸、3 月 13 日にはついにガーナでも初の感染者が出たようで、ニュースに釘付けになりながら、いつ戻れるのだろうかと見通しの立たない日々を送っています(3 月 13 日時点で在日ガーナ大使館は一般旅券保持者に対するビザ発給を一時停止中)。
さて、「見通しが立たない」のは何も私だけでなく、今、子供から年配者まで、すべての日本人が感じている感覚なのではないかと思います。とりわけ、この新型肺炎の拡大ゆえに収入が激減したフリーランスの方々、時差出勤やテレワークなど働き方を変えざるを得なくなった方々は「一体この状態がいつまで続くのだろう」と感じておられるかと思います。
私個人がここ 10 年ほど中国やガーナでオフィスを持たずに、自宅やカフェで翻訳や記事執筆を生業にしてきたため、テレワークやリモートワークの方々の動向に関心を持っていますが、メディアを通じて、あるいは友人から聞こえてくるのは「家で仕事するのはストレス」という否定的な意見。新型肺炎の問題が起きる前は、こうした働き方は「ノマドワーカー」などとも呼ばれ、時間や場所、人間関係に制約されない生き方としてどちらかというと肯定的に捉えられていた印象があるのですが、今は逆の反応があるのは一体なぜなのでしょうか?
(自宅でも、ここまで開放的ならまた違うかも・・・)
「やらされ型」のテレワークはモチベーションダウン
理由の一つは多くの方々がテレワークを自発的に選択したわけではない、ということでしょう。お勤めの企業がテレワークに対する備えをしていた場合は良いですが、これまでオフィスで顔を合わせて行っていた業務が、突然在宅勤務を命じられることにより一変してしまいます。コミュニケーションや書類のやりとりがスムーズにいかず、ストレスになっている方も多いように見受けられます。
また、そこに追い打ちをかけたのが、3 月 2 日に出された政府からの休校要請で、人混みを割けるために外にも遊びに行けず、行き場を失った子供たちが常にそばにいて仕事に集中できず…また夫婦で在宅勤務だとお互いイライラしてしまって、小さなことで口喧嘩、というご家族も多いようです。
「この先が見えない状況、どこかで味わった感覚だなあ」と思いめぐらしていると、「あ、これってガーナ・・」とはたと気づきました。誤解していただきたくないのですが、個人的にガーナは大好きですが、日本で育った私にはなかなかついていけないところもたくさんあるのです。その一つが「いろいろなことの先が見えない」ということです。
例えば、ガーナでは時間の流れ方が日本とは異なり(ざっくばらんに言えば時間にルーズということですが)、個人的な約束をしても、時間通りに相手がやってくることはまずありません。ぎりぎりに中止になることもよくあります。
そんなガーナですが、ある時、友人夫婦の結婚 1 周年のパーティーに誘われました。親族も含めてたくさんのお客が来ると聞いていたので、さすがに時間通りだろうと思って約束の時間に言ってみるとほぼ一番乗り。知り合いも多くないので、何をすることもなく待っていると約束の時間から 1 時間、2 時間過ぎてパラパラと人が集まり始めます。それでもまだ食事の準備すら出来ていません。来客はだれも文句を言うことなく待っています。
食事が準備されたのは約束の時間から 3 時間以上が過ぎた時。驚くべきことに地元の人たちはそのタイミングを分かっていたようで、その時点で参加者はマックスに。結婚1周年というから何か特別なイベントや友人夫婦のスピーチがあるのかな、と見守っていましたが、それもなく、ただパーティーはなんとなく続き、最高潮に達することもなく、食事を済ませた人たちが満足そうに三々五々帰っていきます。
パーティーの片付けを手伝いながら、始まりも、終わりも、出発点も、終着点もないパーティーに「なぜ?」とひたすら問いかけている自分がいました。自分が悪いわけでもないのに、ガーナをなかなか分かることができない自分に歯がゆさやふがいなさすら覚えました。そして、ガーナで日常を過ごしているといろんなところにそんな「見通しの立たなさ」を感じ、自分がいつもふわふわしているような感覚があります。
今回の新型肺炎はそもそも自分ではコントロールできない問題ですし、政府の休校要請やイベント自粛も、突然次々に降って湧いたようにやってきて、今だにどこがピークで、どこが終着地点かも分からない、ガーナのパーティーのような状況にわたしたちは現在生きているのです。
不条理は受け入れるべし?
今、世界的な流行病の蔓延で売れ行きが爆発的に伸びている一冊の本、それがフランスの作家アルベール・カミュ作「ペスト」だそうです。このカミュは不条理を描いた作家として知られていますが、随筆「シーシュポスの神話」でも神々から怒りを買ったシーシュポスに与えられた罰を通じてそれを描きます。
その罰とは、休みなく岩を転がし、山の頂まで運びあげたと思ったら岩がすぐに重さで下まで転げ落ちてしまうというもの。シーシュポスは再び下までおり、また上まで持ち上げる、そして同じ作業を未来永劫繰り返す・・・。先が見えず、何のために労働しているのか、目的や意義も感じられない苦しみを与えられたシーシュポスですが、カミュは主人公シーシュポスがそれを受け入れ、そこに喜びすら感じるように描きます。
わたしたちもいつまで続くか分からないこの騒動に振り回されることなく、この不条理を受け入れ、日常を自分たちの手に取り戻し、そこに喜びを感じようというする決意が必要なのかもしれません。
もちろん、わたしたちはシーシュポスとは異なり、ただただそれを無条件に受け入れるのではなく、自発的にできることが山ほどあります。降って湧いたようにやってきた働き方の変化ですが、それをいつまでもそれをコロナのせいにするのではなく、自発的な工夫、時間のマネジメントや家族の家事の分担など、毎日「これだけのことをやった」と成果を感じられるようできるかもしれません。
コロナウイルスの影響によって失ったものばかりに目を留めるのではなく、子供や家族と一緒に過ごせる時間、仕事を自分なりのペースで行えること、など得ることができたものに目を向け、「見通しの立たない」日常を生きていきたいものです。
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著者プロフィール
YOSHINARI KAWAI
2008 年に中国に渡る。四川省成都にて中国語を学び、その後約 10 年に渡り、湖南省、江蘇省でディープな中国文化に触れる。現在はアフリカのガーナ在住、英語と地元の言語トゥイ語と日々格闘中。
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