映画の余韻に浸りながらエンドロールをぼーっとみていると、真っ暗なスクリーンの端に浮かび上がってくる「字幕 戸田奈津子」の白い文字。それが子どもの私にとっての「翻訳者」のイメージでした。
翻訳という仕事が非常に幅広く、多岐に渡るのですが、一般の方々にはあまり馴染みがないと思います。それで、今回は「実は深い翻訳業界」と題して、翻訳という仕事について少しでも知っていただくために翻訳の仕事の種類をご説明します。加えて、どんな人が翻訳に向いているのかについても分析していますので、翻訳の仕事を考えておられる方は是非参考になさってください。
翻訳の仕事の種類
一口に翻訳といっても一般的には大きく3つに分けられるといわれています。「出版翻訳」、「映像翻訳」、「産業翻訳」です。一つ一つ詳しく見てみましょう。
1.出版翻訳
その名の通り、小説やビジネス書・絵本などの書籍、雑誌や新聞記事の翻訳を行います。
高い翻訳技術が求められるとされていますが、特に文芸作品に関しては、単に小説を正確に翻訳すればよいわけではなく、著者の執筆スタイル、その作品が書かれた時代背景、さらにはその分野そのもの(例えば英文学やロシア文学)に対しても造詣が深くなければできない仕事でしょう。また、登場人物の顔が見える映像翻訳とは異なり、文字だけでセリフを表現するため、各キャラクターの色をセリフで差別化できるだけのスキルが必要となります。
例えば、英語の小説を日本語に翻訳する際、英語でなければ感じ取れない味わいやリズムを日本語で表現するには、高い英語能力にプラスして、その特徴をうまく日本語に織り込んで翻訳する日本語の表現力が必要です。小説家である村上春樹氏が、スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」やサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」など多くのアメリカ文学を翻訳しているのはよく知られているところですが、これは彼の類まれなる感性があってこそなせる業だと言えるでしょう。
また、ノンフィクション翻訳は科学や政治、経済などの最新のトピックに精通しておかなければなりませんし、事実関係を確認するためのリサーチ能力も求められます。
出版翻訳のプロセス
出版社や編集プロダクション、出版翻訳を手掛ける翻訳会社などが、その分野で実績のある出版翻訳者に依頼するというのが一般的な流れです。
翻訳が完了した後、校閲や通し読みを繰り返しての手直しが入るため、プロセス全体は数か月~半年以上に及ぶことも珍しくありません。
出版翻訳者に向いている人
数か月間かけてひとつの作品を翻訳するため、一定量をコンスタントに翻訳できる時間と体力がある方、継続的なファクトチェックに抵抗のない方が出版翻訳者に向いていると言えます。
報酬体系
報酬は一般的に印税か、一括価格での委託料という形で支払われます。
2.映像翻訳
劇場公開映画やテレビ番組などの字幕や吹替台本の制作を行う仕事です。
冒頭で取り上げた戸田奈津子氏は映像翻訳の中でも映画の字幕翻訳の第一人者です。彼女の翻訳には賛否両論があり、特に「ロード・オブ・ザ・リング」での彼女の字幕に対してはファンが字幕の修正や戸田氏の交代を求めて署名活動まで展開するという騒動になりました。
そうした批判を意に介さなかった彼女が述べた、こんな言葉があります。それは「映画字幕は翻訳ではない」ということです。そして、その理由として字幕には字数*1という制約があることにも言及しています。確かに英語のセリフ一つ一つと日本語字幕を対応させていたら、映画を見る側はストーリーを追えなくなってしまうでしょう。
映像翻訳も出版翻訳同様、高い日本語表現力が必要になります。特に映画や音楽、アニメなどの映像作品は見ている側がのめりこめなければなりません。心の琴線に触れたり、共感を生むような表現を思いつくかどうかは経験だけでなく、持っている言葉のセンスも関係するでしょう。
例えば、日本でも大ヒットしたディズニー映画「アナと雪の女王」のテーマソング「Let It Go」は正確に訳せば「放っておいて」ですが、「ありのままで」と訳されているのは多くの方がご存じの通りです。しかし、それは決して誤訳ではなく、映画全体の流れを踏まえ日本人の心にぐっとくる表現が選ばれたということなのです。
またディズニー作品と同じく、欧米の作品ではミュージカル仕立てのエピソードや映画なども増えてきており、その場合は(字幕や吹替の中で)歌詞を自然に訳すというスキルも求められます。
映像翻訳のプロセス
映画配給会社、テレビ局などが字幕制作会社や映像翻訳会社(または実績のある字幕翻訳者)に依頼するのが一般的な流れです。
特殊形式のファイル(字幕の場合は .SRT など)を扱うため、翻訳者には専用のソフトウェアを扱う技能が求められます。
吹替(ボイスオーバー)台本の作成の場合、翻訳者や翻訳コーディネーターにスタジオ収録への立ち合い*2が求められる場合があります。実際、弊社も海外の制作会社と YouTube 用 CM の翻訳の仕事をしたことがありますが、その際はロンドンのスタジオとこちらをリモートでつないで収録に立ち会いました。
映像翻訳者に向いている人
遊び心ある表現のセンスをお持ちの方、長い文の要点を簡潔にまとめる能力がある方は、映像翻訳者としての素質があると言えます。
自分がベストだと思った翻訳も、チェッカー(翻訳チェック責任者)によっては意見が異なる場合があります。映像翻訳はチーム作業であるため、複数の人の意見を柔軟にかみ砕いてより良い訳を作っていける人であればベストです。
実務翻訳と比べて、フリーランスの映像翻訳者は稼げるとは言えない場合が多いため、映像が好きで、下積み期間があってもこの業界でやっていきたいという強い意志がある方は長く続けられる職業だと言えます。
報酬体系
報酬は一般的に、分単位のレートで計算されます。
3.産業翻訳
翻訳者(社)人口が最も多いのがこの「産業翻訳」です。
出版翻訳や映像翻訳の第一線で活躍しているのは翻訳家の中でもほんの一握りの方です。つまり、日本で翻訳の仕事に携わっている大部分の企業、フリーランスの方々は弊社も含め、この産業翻訳の仕事をしています。
産業翻訳は、実務翻訳といわれることもありますが、ビジネス文書やマニュアル、社内規定、契約書、特許関連の書類など、企業活動に関わるあらゆる分野の文書をカバーします。さらに企業がマーケティングやプロモーションのために用いる Web 上のコンテンツや記事の翻訳も手掛けます。
産業翻訳の中の法律文書や技術系のドキュメントなどは読みやすさよりも正確性が求められますが、弊社がメインで行っている「マーケティング翻訳」と呼ばれる分野では読み手を意識した心をとらえる翻訳が求められます。その点では映画の字幕翻訳と近いところもあるのかもしれません。
なぜなら、マーケティング翻訳の目的は(Web の場合)クライアントの Web サイトが検索結果の上位に表示され、より多くのユーザーの目に触れ、結果として商品の購入につなげる、または集客効果を生み出すことだからです。そのため、マーケティング翻訳は(まったく同義語ではありませんが)「クリエイティブ翻訳」とも呼ばれます。特に商品やサービスを販売している場合、国や地域に合わせて売り文句を変えていく必要があります。原語のニュアンスや意味をベースにしながら、その地域のオーディエンスにしっくりくる表現を考えるのがマーケティング翻訳者の仕事です。
ただ、誤解していただきたくないのですが、マーケティング翻訳やクリエイティブ翻訳が正確性をおろそかにしているわけでは決してないということです。正確性といっても、頭で理解する部分と心で感じる部分に分けるとすると、マーケティング翻訳は後者にフォーカスしているということなのです。
原語のタイトルが持つキャッチーな響き、コンテンツがもつメッセージ性を翻訳者がまず心で感じ取り、その本来の意味や感覚を壊さないように日本語で改めて創造し直すというプロセス、それがマーケティング翻訳です。
マーケ翻訳の難しさについてはこちらの記事もご覧ください。
産業翻訳のプロセス
一般企業が翻訳会社や広告代理店に翻訳やコンテンツ制作を依頼し、そこからフリーランスの翻訳者に声がかかるのが一般的な流れです。
Web メディアやテレビ、報道関係のコンテンツの場合はスピードが命となるため、翻訳者にも迅速なレスポンス(依頼の連絡を受けてから承諾するまでの時間)とスピーディーな納品が求められます。依頼当日の納品はもちろん、依頼から1~2時間で納品を求められることも少なくありません。
産業翻訳者に向いている人
上記2つのタイプの翻訳と比べると、どちらかというとより多くの翻訳者に開かれた分野だと言えます。また、クライアントにスキルを認められれば駆け出しでも安定的に仕事を受注できる可能性があります。
ただし、メディア関連の翻訳に携わる場合は迅速に正確なものを納品できるスピードと技術があることが基本となります。
出版・映像系と異なり、文脈(コンテクスト)が全く分からない*3形で依頼が来やすいのは産業翻訳の難点です。その場合、依頼の内容を正確に汲み取り、クライアントに必要な質問ができることは産業翻訳者が持つべきスキルだと言えます。
報酬体系
報酬は一般的に、ワード/文字単価で計算されます。
(翻訳対象が画像であるなど)正確なワード数が分からない場合や、広告コピーの翻訳など翻訳以上のスキルが求められる場合は、時給換算や一括価格での支払いとなる場合もあります。
翻訳に向いている人とは?
以上のことを踏まえて、翻訳に向いている人とはどんな人かズバリ申し上げると「他人の幸せを喜べる人」ということになります。つまり、他人より自分が幸せじゃなきゃ嫌だ、いつも一番じゃないと満足できない、という人は翻訳者よりも作家やクリエイター、起業家としてのキャリアが向いているのかもしれません。
上に挙げたどの分野の翻訳でも、翻訳者が著者よりも注目されることはまずありませんし、そうなるべきでもありません。字幕翻訳の大御所である戸田奈津子氏の名前が出るのも映画の一番最後であり、エンドロールを見ないで席を立つ人はそもそも彼女が翻訳したことなど知る由もありません。戸田奈津子氏は「理想的な字幕は、観客に字を読んだという意識が何も残らない字幕、画面の人が日本語をしゃべっていたと錯覚を起こすくらい『透明な字幕』が良い」と述べていることからも、彼女が作品にとって黒子に徹していることが分かります。
弊社の仕事も同じです。クリエイティブ翻訳をしているからといって、クライアントよりも目立とうと考えているわけではなく、一番の願いは相手の意向を十分に汲み取った上で、弊社の翻訳によりクライアントのコンテンツやタイトルが多くの人たちによって注目されることです。当たり前ですが、ユーザーはそこに弊社の存在があることなど知りません。そんな「透明な存在*4」であることにニヤニヤできる人、そういう方が翻訳者にぴったりといえるのではないかと思います。
翻訳者の仕事ぶりについて興味が湧いてきたという人は、こちらの映画もぜひ観てみてくださいね。
注釈:
*1:字幕の場合、一コマ(それぞれの字幕が表示される時間枠のこと)の文字数は14文字 x 2行が妥当だとされています。
*2:吹替台本の制作の場合、提出した訳文を実際に声優が読んでみるとタイムオーバーだったというケースもあり得るため、翻訳関係者が収録に立ち会ってその場で修正し、別のバージョンをアドリブで収録するということがあります。
*3:ビジネス系の翻訳の場合、「既存文書の一部だけ翻訳が必要になった」等の理由でその部分だけが翻訳者に送られ、翻訳を依頼されることがあります。しかし文書の全体像が見えにくい中で翻訳を行うのは困難なことが多いため、このような場合はクライアントとしっかりとコミュニケーションを取れるスキルが必要になってきます。また、アプリの翻訳で多いのが UI 文言のみテキストで提供され、実際のアプリのスクリーンショットが提供されないという場合です。この場合もたとえば「Let’s Go」がボタンなのか広告のコピーなのか、はたまた別の存在なのかが翻訳者には分からないため、正確な翻訳を提供することが難しくなります。
*4:出版翻訳者、映像翻訳者として個人で活躍されている方は別ですが、一般的に産業翻訳者は翻訳会社や広告代理店を通じて仕事を受け取ります。弊社もしかり、一般企業と契約して翻訳の依頼を受ける場合は守秘義務が課されるため、翻訳者(翻訳会社)の名前が表に出ることは少ないのが現状です。
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著者プロフィール
YOSHINARI KAWAI
2008 年に中国に渡る。四川省成都にて中国語を学び、約 10 年に渡り、湖南省、江蘇省でディープな中国文化に触れる。その後、アフリカのガーナに1年半滞在し、英語と地元の言語トゥイ語をマスターすべく奮闘。コロナ禍で帰国を余儀なくされ、現在は福岡県在住。
編集:SIJIHIVE TEAM
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